観音菩薩
衆生困苦をこうむりて
無量の苦
身にせまらんに
観音の妙智の力
よく世間の苦を救う
〈法華経普門品〉
観音信仰への道
私たち人間の生活には苦しみがつきものです。思いがけない災難はいつどこで起こるかわかりません。そういう時こそ自分の無力を強く感じます。つかまるところがなければ、そのまま倒れてしまう。観音はすぐれた知恵と能力とを一身にそなえ、誓願によってあらゆる生きものの苦しみを救います。病気なり、貧困なり、事故なりで、せっぱつまった立場に追いこまれたとき、観音を念ずるだけで、安らぎを得るに違いありません。安心を与えてくれるのは信仰の力なのです。
「観音さま」として日本で一般に親しまれていますが、漢字で書くと観世音、観自在または光世音ともいいます。その名称がさまざまによばれるように、また、いろいろの姿としておがまれています。基本的な姿をふつうに聖観音といい、お顔の数によって九面観音、十一面観音などという区別もありますが、九も十一も多数をあらわし、あらゆる生きものに顔を向けてくれる(いわゆる「普門」)という意味です。
千手観音は千本の手を持ち、それぞれの手に眼があるので千手千眼観音ともいいます。不空羂索観音もよく知られています。ふつうの両眼のほかに額の中央にたてに第三の眼があり、八本の手にさまざまの持ち物がありますが、羂索(生きものをとらえるナワ)がその特色です。また頭上にウマの頭を載せ、多くの恐ろしい顔を持ち、手の数も多いのが馬頭観音です。如意輪観音は手に如意輪とよばれる宝珠を持っています。このようにさまざまな姿としておがまれ、またいろいろな名でよばれるところに観音菩薩の特色がよくあらわれています。
観音菩薩は災難に苦しむものを救い、財宝や子孫を授け、かつまた欲ばり、怒り、愚かさなどの人間的欠陥を治療してくれます。慈愛と峻厳の両面をそなえた尊格です。
インドのことばでアヴァローキテーシヴァラといいます。「観察力のすぐれたもの」という意味で「観自在」という訳に相当します。生きものたちの希望や願いごとを見とおして、いつどこでもすぐに助けてくれる。生きものがその方の名を聞き、一心に名を唱えればすぐに救われる。世間の声を観察して聞き届けてくれるところから「観世音」とも「観音」ともよばれます。
「観音」は広くあらゆる生きものを救済するために、仏陀ともなり、菩薩ともなり、神ともなり、ありとあらゆる種類の男女、または怪物の姿さえして、私たちを救ってくれます。この意味から考えると、私たちの親切な隣人も、あるいはまた私たちを苦しめて発奮させる意地わるな人も、実は観音菩薩の化身かも知れません。三十三身の姿といいますが、インドでは古くから三十三は多数をあらわし、三十三神といえば一切の神々のことをいいます。