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「祈り」は単なる儚い希望の表現であってはなりません。


それは「既に感受された!」という徹底的確信にならなければ本物ではないのです。


あなたの祈りが徹底的確信にまで到達したとき、本当に如来の既に発信したまえる密厳浄土と波長が合うのです。


単に希望である限りにおいて、波長が辛うじて合うこともあれば、合わぬこともあり、迷いの波長を混信することもあるのです。


あなたの祈りを単なる希望から思想へ、思想から確信へ、確信から行動へ、あなたの一呼吸毎にその確信がほとばしるようにならなければ本物ではないのです。


「行動を伴わぬような信仰はカラ念仏だ」というのはそのことです。




「救いの本源」と、「救いの門」または「救いの通路」とを混同してはなりません。


すべての宗教や、宗門や、説教や、教団や、教会は、「救いの門」または「通路」であって「救いの本源」そのものではありません。


「救いの本源」はあなたの「生命」の本源なる「名づけがたき神秘なる大生命」です。


本来「名前」はないのですが、宗門宗派、または人種・民族の相異によって色々の神名や仏名をつけているのです。


宗教や宗門によって本尊の名前が異るからと言って、救って下さる本源が別々のものであると考えてはならないのです。


宇宙には唯一つの「神」または「仏」があるのです。


それを真言密教では大日如来と呼んでいるのです。



 何よりも大切なのは「一向専心」ということなのです。


「唯一向専心に南無阿弥陀仏と念じて」ということを言い換えると、「ただ一向専心に、仏と一体であるから今此処極楽浄土天国である」と深く念ぜよということです。


一向専念とは、思いをこめて、他のことを思わず心を専らにするということです。


若しあなたが苦痛の真唯中にあろうとも、「この苦悩を取り去り給え」と念ずるのは、苦悩を念ずることになりますから、雑行雑修になります。


苦悩の中にあっても苦悩を思わずただ「今此処天国浄土にして、仏と一体なるが故に、此処に極楽はあり」と一行に澄み切って念ずるとき魂の解放を得るのです。

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