「祈り」は単なる儚い希望の表現であってはなりません。
それは「既に感受された!」という徹底的確信にならなければ本物ではないのです。
あなたの祈りが徹底的確信にまで到達したとき、本当に如来の既に発信したまえる密厳浄土と波長が合うのです。
単に希望である限りにおいて、波長が辛うじて合うこともあれば、合わぬこともあり、迷いの波長を混信することもあるのです。
あなたの祈りを単なる希望から思想へ、思想から確信へ、確信から行動へ、あなたの一呼吸毎にその確信がほとばしるようにならなければ本物ではないのです。
「行動を伴わぬような信仰はカラ念仏だ」というのはそのことです。