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お経を唱えるとは

  • 執筆者の写真: 本間 啓庸
    本間 啓庸
  • 4月20日
  • 読了時間: 3分


 読経とは、仏さまの世界と一体となるための尊い修行です。「仏さまと一体になる」とは、ただの概念ではありません。自分が宇宙の一部であることを、理屈を超えて、全身全霊で感じること。この身このままで、宇宙そのものと響き合う体験であり、最高の安らぎへとつながります。


 それは、死の恐怖すら超えた境地。すべての幸福を極めると、最終的にこの境地に至ります。亡き人はすでに仏さまの世界に溶け込んでいます。だからこそ、私たちも読経によってその世界と一体になろうとすることは、故人への何よりの供養となるのです。


 お経を知識で理解するだけでは不十分です。心で読め。信心で読め。身体で唱えよ。


 意味を知ることも大切ですが、それ以上に澄んだ心で真心を込めて唱えることが大切。言葉を超えて、仏さまと深くつながるために。


 お経を唱える前後に経本を両手で掲げる「頂く」という作法には、経典が単なる文字ではなく、私たちを悟りに導く尊き存在であるという祈りが込められています。


  掌に宿る経の光

  そっと掲げて真心を込めて唱える

  心の風にゆらめいて

  仏の世界ひらけゆく


 また、読経では「観想」が肝要です。仏さまと一体になれると信じる心で、お経や真言をただ音にするのではなく、仏を念じながら唱えるのです。


  観じ、誦え、澄む心

  真言の波に無明消ゆ

  響け、内なる声よ

  慈悲の光に満ちるときまで


 弘法大師も説かれました。


  「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く」


 読経とは、音読ではありません。仏と心を通わせ、迷いを払い、心を澄ませる修行です。


 お経を「意味がわからないもの」と決めつける姿勢は、現代の「すぐ答えが欲しい」「役立たないものに価値を感じない」という風潮の表れかもしれません。


 たしかに難解ですが、その難しさにこそ、仏と向き合う余白があるのです。


 わからなくてよい。


 わからないまま唱える中で、理屈を超えた真実が、静かに宿っていく――それが読経の核心です。


 解説を求める心は自然なこと。しかし、それが「実践しないための言い訳」になってはいけません。仏教は「説明してくれる宗教」ではなく、「実践して悟る宗教」です。


  音としてのお経を

  「意味不明」と片付けるなかれ。

  意味の奥にこそ、

  意味を超えた真実がある。


 心が伴わぬ読経は、ただの発声。理解だけを求める姿勢には、祈りも供養も、生きる力も宿りません。だからこそ、こう申し上げたいのです。


  お経は「知るもの」ではなく

  「響かせるもの」

  声にして、心に響かせよ。

  意味を超えた先に、仏の智慧がある。


 耳ではなく胸で聞き、頭ではなく心で唱えるとき、そこに仏の声が、あなたの中に静かに宿りはじめるのです。

 
 
 

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