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奇哉の奇 絶中の絶なるは それただ自心の仏か『秘密曼荼羅十住心論』


もっとも不可思議なものは、私の心にある仏である。



 人が本当の自分の尊さに気づくために、必ずしも経典を学ばなければならないわけではありません。仏教は、すべての人の中に「仏性(ぶっしょう)」が具わっていると説きます。仏性とは、誰もが本来仏であるという尊い本質です。その仏性に目覚めること――それこそが、真の「救い」なのです。


 けれども、時代や文化、国柄によって、人々の理解のしかたや求める表現は異なります。そのため、仏さまは様々な教えを「方便(ほうべん)」として説かれました。方便とは、人々を真理へと導くために、相手に合わせて用意された“仮の道”です。


 真理はひとつであっても、その伝わり方は千差万別です。それはちょうど、ひとつの音楽を様々なスピーカーで聴くようなもの。スピーカーの性能や状態によって、音色や響きが変わってしまうのです。宗教もまた、語られる言葉や形が違うだけで、その根底に流れる真理は同じなのです。


 仏教は、そうした「違い」の奥にある「一つ」に目を向けよと説きます。それは「すべての人が仏である」という気づき――仏性の自覚にほかなりません。私たちがその本質に目覚めたとき、宗派や宗教の違いにとらわれず、いのちの尊さをともに讃える道がひらかれてくるのです。

人生とは、大きな料理屋に足を踏み入れるようなものです。

そこには贅を尽くしたご馳走から、質素な一皿まで、あらゆる料理が揃っています。けれども、私たちが席に着くだけでは、料理は運ばれてきません。注文をしなければ、何も始まらないのです。


これは人生において「願いを立てること」の大切さを教える、深い譬え話です。

他の人々が次々と料理を楽しんでいる中、自分の席には何も届かない。その理由はただ一つ——「自分が何を欲しているのか、言葉にしていないから」です。


仏教では、こうした意識の働きを「発願(ほつがん)」と呼びます。

ただ「幸せになりたい」「成功したい」とぼんやり思っているだけでは、人生に具体的な変化をもたらすことはできません。願いとは、まず自分が何を求めているのかを明確にし、それを心に掲げ、行動と祈りによって形にしていくものです。


そのための具体的な修行として、真言密教には「護摩(ごま)」という祈りの法が伝えられています。

護摩とは、炎の中に供物を投げ入れ、煩悩を焼き尽くし、清らかな願いを仏に届ける儀式です。願いは護摩札にしたためられ、護摩の火の中で読み上げられ、天に託されます。


しかしこれは、単なる願掛けではありません。護摩札に願いを書くという行為は、自分が「人生で何を望んでいるのか」を明確にし、それを仏の前で宣言するという、極めて能動的な信仰行為なのです。


たとえば、料理屋で「何でもいい」と言えば、何も出てこないか、望まぬものが出てくるでしょう。けれども「これをください」とはっきり言えば、料理人は腕をふるってくれる。仏の前でも同じことです。私たちが明確に願いを立て、それを祈りに託すとき、その願いはようやく人生の舞台に現れはじめるのです。


さらに重要なのは、その願いを「忘れない」こと。護摩札を自宅に祀り、日々手を合わせることで、自分の初心を思い出し、心を整えることができます。それは自分自身との対話であり、仏との縁を深める時間でもあります。


人生において願いを立てることは、目的地を定めること。

護摩は、その道の途中に立つ灯であり、祈りは風を受けて進むための帆のようなものです。


大切なのは、ただ座って待つのではなく、自ら求め、祈り、歩み続けること。

人生という料理屋で、ただ空腹のまま待ち続けるのか。あるいは、願いを言葉にし、自らの人生の一皿を味わい尽くすのか。


その鍵は、「あなたの願い」にあるのです。

「ローマは一日にして成らず」「待てば海路の日和あり」とは、いずれも時間のもつ力と、継続の大切さを教える言葉です。しかし、仏教ではそれを単なる「待つこと」とは見ません。そこに働いているのが「精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)」の実践です。


精進とは、怠ることなく善を修め、悪を離れんと努力すること。つまり、単なる努力ではなく、仏道にかなった正しい方向へ向かう不断の努めを意味します。


嵐の海を前に、無理に船を出せば難破するばかりです。しかし、だからといって浜辺で手をこまねいていては、凪の日に船出することもできません。海が荒れているその間にも、船を整え、帆を繕い、羅針盤を調えておく。これが精進の心です。


たとえば、魚を釣るときも同じこと。暴れる魚に無理に力をかければ糸は切れます。魚の勢いが収まるのを待ち、疲れを見てから、確実に釣り上げる。そこには忍耐と観察、そして準備があります。


毛虫が蛹となり、一見動きもなく眠っているかのように見えるときでさえ、内には蝶となる準備が進んでいます。それと同じく、わたしたちもまた、たとえ外からは何も変わらぬように見えても、日々仏道を忘れず、怠ることなく歩む必要があります。


「精進波羅蜜」は、「今はまだ時ではない」として休むことではなく、「時が来たならば必ず実を結ぶように、今この時にも最善を尽くす」ことを教えます。


偉業は一朝一夕には成りません。しかし、今日という一日に誠実を尽くし、怠らず歩む者にだけ、その果実はもたらされるのです。

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