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不動明王と菩提心

 人間の理想の境地を「さとり」(菩提)と名づけ、それを追求する決意を菩提心といいます。日常の生活においても、悪を捨て、善を行ない、人を助け、世のために働くのは、すべて菩提心にもとづきます。これは活動の源泉ですが、その根底には確固不動の信念があります。活動を可能にするものは深い瞑想です。これを「大寂定」といいます。


  瞑想と活動とは表裏一体です。活動の象徴としての火に包まれ、瞑想の象徴である岩の上に座し、万人に奉仕する奴僕の姿を示す不動明王はわれわれの理想像です。


 人間の活動は心とことばと体との三種類からなりたっています。心に考えていることが口に出るし、また体の動きとなって現われます。この心と口と体の動きを身口意の三業といいます。われわれ普通の人間の身口意も仏陀の身口意も本質的には変りがなく、不思議な働きをするところから三業を三密ともいいます。人は自分の三業を自然の成り行きのままにまかせ活動させておくと、悩み苦しみ迷うばかりです。そこで自らの三業を仏陀の三密に相応させる努力が必要となってくるのです。


 そのためには心に本尊の姿を念じ、口に真言を唱え、手に印相を結ぶことによって仏陀の三密をこの身に実現することです。真言というのは仏陀のことばを象徴的に要約したもので、これを唱えることによって仏陀の境地に達する重要な方法です。


 これらすべては形式・手段のようにみえますが、形式がそのまま実質であり、手段がそのまま目的であるというのが真言密教の教えであり、形式や手段を離れて別に実質や目的があるのではありません。


 このような理由から法式はきわめて重要視されます。ここに宇宙現象、社会現象、人間現象の一切が含まれ表現されます。その代表的なものが護摩(ホーマ)です。密教では本尊に向う行者は心に本尊を念じ、口に真言を唱え手に印を結ぶことによって本尊と一体になるのです。行者の外に本尊があるのではありません。少くとも修法の間だけは行者が本尊になりきる。護摩壇に火を焚き、供物を供養するのもみな本尊自身を供養するのであり、両者は別体ではありません。


 したがって本尊についても真言密教には独自の見解があることが明らかになります。およそ大多数の宗教は自己の無力を痛感して自分以上に強力なものの存在を信じ、それに頼り、恩寵を求めて幸福になることを目的とします。


 自己の無力を知って、より高いものを探し求めることは、宗教心の芽ばえとしては結構なことには違いありません。いわば無力な赤ん坊が乳を求め、乳を与えられ安心して母の胸に眠るようなものだといえます。この段階に留まる者も多いですが、真剣に物事を深く考える人間としては、そこに留まるだけでは満足しません。また自分だけの目前の幸福しか求めないのでは本当の宗教とはいえません。自己の使命に目覚め人間社会および宇宙における自己の位置をしっかり見定めるのでなければ本当の人間とは言えないのではないでしょうか。一人一人がそれぞれ独自の立場に生きることこそ本当の宗教であるはずです。


 真言密教を外から眺めるとその本尊は寺院や修法によりまちまちであるように見えますが、実は本尊というものは信じる者の立場によって異なる方がむしろ当然なのです。


 真言密教では宇宙の理法そのものを大日如来とします。万物に生命を与え、成長させるという点で太陽にも似ていますが、太陽の象徴ではありません。むしろ太陽の方が大日如来のひとつの表現です。わたしたち一人一人も、ないし草木自然に至るまで大日如来のあらわれなのです。


 大日如来は様々の姿を示しますが、中でも正義と知性とを明らかに象徴するのが不動明王です。不動明王の姿は人間の貪瞋痴の煩悩を打ちくだき仏陀の真智にめざめさせる趣意を現わし、抜苦与楽の象徴です。すなわちその姿は火焔を背におおい、右手には降魔の剣を持ち、左手には羂索を持っています。火焔は生きものたちの悪や煩悩をやきつくす。剣は悪をたち切ると共にものごとを正しく決断する知性の意味でもあります。羂索は罪人を縛り、裁判する正義を表現すると同時にすべての生きるものの相依相関のつながりを結びつける慈悲のしるしでもあるのです。



 

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