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人生は料理屋の如し 〜願いを立て、祈り、精進するということ〜

  • 執筆者の写真: 本間 啓庸
    本間 啓庸
  • 5月17日
  • 読了時間: 2分

人生とは、大きな料理屋に足を踏み入れるようなものです。

そこには贅を尽くしたご馳走から、質素な一皿まで、あらゆる料理が揃っています。けれども、私たちが席に着くだけでは、料理は運ばれてきません。注文をしなければ、何も始まらないのです。


これは人生において「願いを立てること」の大切さを教える、深い譬え話です。

他の人々が次々と料理を楽しんでいる中、自分の席には何も届かない。その理由はただ一つ——「自分が何を欲しているのか、言葉にしていないから」です。


仏教では、こうした意識の働きを「発願(ほつがん)」と呼びます。

ただ「幸せになりたい」「成功したい」とぼんやり思っているだけでは、人生に具体的な変化をもたらすことはできません。願いとは、まず自分が何を求めているのかを明確にし、それを心に掲げ、行動と祈りによって形にしていくものです。


そのための具体的な修行として、真言密教には「護摩(ごま)」という祈りの法が伝えられています。

護摩とは、炎の中に供物を投げ入れ、煩悩を焼き尽くし、清らかな願いを仏に届ける儀式です。願いは護摩札にしたためられ、護摩の火の中で読み上げられ、天に託されます。


しかしこれは、単なる願掛けではありません。護摩札に願いを書くという行為は、自分が「人生で何を望んでいるのか」を明確にし、それを仏の前で宣言するという、極めて能動的な信仰行為なのです。


たとえば、料理屋で「何でもいい」と言えば、何も出てこないか、望まぬものが出てくるでしょう。けれども「これをください」とはっきり言えば、料理人は腕をふるってくれる。仏の前でも同じことです。私たちが明確に願いを立て、それを祈りに託すとき、その願いはようやく人生の舞台に現れはじめるのです。


さらに重要なのは、その願いを「忘れない」こと。護摩札を自宅に祀り、日々手を合わせることで、自分の初心を思い出し、心を整えることができます。それは自分自身との対話であり、仏との縁を深める時間でもあります。


人生において願いを立てることは、目的地を定めること。

護摩は、その道の途中に立つ灯であり、祈りは風を受けて進むための帆のようなものです。


大切なのは、ただ座って待つのではなく、自ら求め、祈り、歩み続けること。

人生という料理屋で、ただ空腹のまま待ち続けるのか。あるいは、願いを言葉にし、自らの人生の一皿を味わい尽くすのか。


その鍵は、「あなたの願い」にあるのです。

 
 
 

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